自己紹介「私はミソジニーを叩けない」

多くの方にははじめまして、太一と申します。
本名ではありませんし、気に入ってもいません。だから愛着もありません。

私がどういう人間かについては、実はTwitterのbioで事足ります。

というわけで、この記事では、自己紹介と言っておきながら、自分のスタンスの表明をさせていただこうと思います。
とはいえそんなに立派な思想があるわけではないので、あくまで私の議論のやり方を三点ほど簡潔に説明させていただきます。

 

①個人的な話と社会的な話を区別する

 最も気をつけている点の一つとして挙げられるのが、この考え方です。

私はジェンダーについて議論することが多いのですが、そもそもジェンダー論は「男女の生来の性差であるsexに加え、社会が生み出す性差genderが存在し、それが人々の生き辛さを助長するようなら社会的規範を組み直した方が良いだろう」という考えを出発点にしています。私はXジェンダー(自己の性別は女性でも男性でもない)かつパンセクシャル(恋愛対象は男性にも女性にもそれ以外にもなる)の立場を取っていますので、当然のように「男にも女にも必要以上の差はないよ!」というジェンダー論に共鳴します。

 しかし、だからこそ、不安になることもあります。「自分が今語っているジェンダーは、本当に"思想"としてのものだろうか?ただ、自分の"趣味・好み"について語っているだけではないのだろうか?

 具体的には、次のような場合です。私は現在セクシャルマイノリティLGBTなどと呼ばれている人々がそのような特殊な区分もされず、シスジェンダー(身体的性別と性自認が一致)ヘテロセクシャル(異性愛、以下まとめてシスヘテと呼称)の人々と何の差異もなく暮らせるような社会を目指し活動しています。それゆえ時に、シスヘテの恋愛しか描かれない恋愛作品を見たときに、「なんと差別的な作品だ」と一瞬身構えてしまいたくなります。しかし、そういった恋愛作品の対象は誰でしょう。そういったシスヘテの男女なのではないしょうか。脚本を書いているのも、そういったシスヘテの恋愛が好きな方であろうと推察されます。つまり、あくまでこれはそういった作品を取り巻く人々の"好み"の話であると考えられ、批判するのは筋違いだとわかります。男女の完全なる平等を目指していたとして、「私は男性しか恋愛対象として見れません」という女性を男女不平等だ!と批判することは筋違いでしょう。つまりはそういうことなのです。もし私が批判すれば、私はただ「自分の性癖を人に押し付ける奴」になります。(この点から理解していないアンチフェミ界隈の方がエマ・ワトソン氏をこの文脈で批判しており、非常に残念な気持ちになったことを覚えています)

 しばらく前に、Twitterでとある漫画家の方が「露骨なエロ漫画は規制してしまえば良い。良い作品は性器の描写ではなく表情からエロスを伝えるのだ。」と発言し話題になっていましたが(あくまで理解していただくための一例としての引用なので、厳密なニュアンスは保証いたしません、ご容赦を)、あれも「自分の趣味趣向」と「社会的なあるべき姿」を混同している良い例でしょう。他にも、自分が化粧に無頓着なのを良いことに会社で化粧する女性を批判したりとか、自分が異性愛者でなんとなく気持ち悪いという理由で同性婚(すべての人のための結婚)を批判したりとか、様々な実際の例があります。

 さて、ここまでは「自分の趣味趣向」と「社会的なしくみ」の話。ここからは少し視野を拡大して、本題である「個人的な話」と「社会的な話」についてです。

 皆さんはミソジニストを見かけたらどう思うでしょうか。「女性差別はまだ根深い」「こういう人がいるから社会における女性の権利が未だ不完全なままだ」「こういう人に私も苦労させられた」様々な怒りや嫌悪の気持ちが芽生える方が多いのではないでしょうか。

 しかし、私はミサンドリストなのです。あまり男性と会話したくありませんし、男性の思考を心底気持ち悪いと思ってしまうことが多く、男性を嫌いといってもいいでしょう。それは、差別でしょうか。絶対に改めなければいけない考え方なのでしょうか。

 私に、ミソジニストの方を批判することはできません。それは、私自身をも否定することに繋がるからです。無理にでも男性を好きになれと言われて、好きになれるものではありません。……どうやっても好きになれと?それは、レズビアンの女性に「お前が女なんかを好きになるのは本当の男の良さを知らないからだ、どれ、俺が教えてやろう」と手を出すクソ男の思考そのものではないですか?……おっと、少しこれは感情的だったかな。

 私は、自分の趣味趣向と社会的なしくみの話を分けて考えたいと先ほど述べました。私はよく「男なんて死んじまえ」と考えてしまうことが多いですが、実際に何らかの形で男性の人権が抑圧されるようなことがあれば、何がなんでも反対します。それは、私の個人の趣味の理想化でこそあれ、絶対に「正しくない」と思われるからです。私は、自分が「個人的に」男性を嫌いであるだけだと自覚しています。ミソジニストの方も、私と同様に、自分の趣味趣向と社会的規範を混同しないように気をつけているのであれば決して攻撃対象にすべきだとは思いません。トマトが嫌い。ああそう、私は好きだけど君は苦手なんだね。バラエティ番組が嫌い。ああそう、僕は楽しくて好きだけど君はああいうノリが合わないんだね。女性が嫌い。ああそう、君には合わないんだね。それだけの話だと思います。

 しかし、もしその趣味趣向を社会的に場に持ち込んでしまう場合は別です。女性が嫌い。ああ、そう、だから優秀な社員であっても昇進させないんだね。……なーんて、認められるわけがないじゃないですか。実際にそういう人が多いのが、問題なのです。

 さて、もうひとつ例を。亭主関白。今どき、流行らない文化でしょうか。未だに、家父長制は深く日本社会に根付いているのでしょうか。どちらの意見もあるでしょう。私は断定しません。しかし、この記事を読んでおられるような方の多くはそれに反発を抱いているのではないでしょうか。それでは、かかあ天下の家庭はどうでしょう。同様に批判すべきなのでしょうか。

 私は、どういった形の家庭が、そのメンバーである家族にとって最適であるかは、個人的な問題であると考えています。亭主関白の家があっても良いのですよ、本当にそれが最適なのであれば。それによって家族が幸せになるのであれば。かかあ天下の家も同様です。それが良いとその家庭が思うのであれば、そうなれば良いのです。ジェンダー論が、男女の性差を完全に排除していないのには理由があります。「合理性のない」役割期待によって生き辛い人がいるなら、その不合理な規範を取り払ってしまえばいいではないか。それによって誰も不幸にならないのであれば、反対する理由もないじゃないか。といった所です。つまり各家庭に合理性があって夫婦どちらか(あるいは子供が力を持っていても別段悪くないと思うのだが)が力を持っているのなら、それを批判するのは人様の家庭に対する悪質な介入にほかならないでしょう。

 では、なぜこれだけ我々が反感を覚えるのか。実はこれは敏感になりすぎ、などではありません。れっきとした理由があります。それは、亭主関白が、我々が戦うべき相手である社会的規範が内面化された結果である場合が多いからです。「男が大黒柱、家を支えるべきだ」という社会に根付いた風潮。これによって、一切の合理性なく亭主関白となる家庭は多く存在しているでしょう。こういった点は、十分批判するに値するものです。こういった家庭と、先述のようにちゃんと理由があって男性が力を持っている家庭を見分けることは困難です。だから、我々は目先の家庭や既婚男性を批判するのではなく、社会そのものに一石を投じる必要があるのです。同様に、ミソジニストも単なる好みの問題なのか社会的規範から来ているものなのか区別がつかない上では、攻撃すべきはその社会的規範そのものなのではないでしょうか。

 最後に、実を言うと、私はフィクションであれば「女性がひどい目に合う成人向け漫画」にも性的興奮を覚えます。よく規制が叫ばれているようなやつです。現実では一切そのようなことを許すつもりはありませんし、むしろフェミニストの方々と一緒になって活動することが多いです。このようなことを書くと、SNSではボコボコにされることが多いですし、読んで下さっている皆さんも白目を剥かれていることかと存じますが、ここまでの文章を踏まえ、これはあくまで「個人的な趣味趣向」であるとご理解頂けないでしょうか。

 

②人間は矛盾するもの

 ここまでが長くなりすぎてしまったので、以下は出来るだけ簡潔に書きましょう。私の議論のスタンスとして、人間は矛盾するものであるという考えがあります。私は行動経済学を学んだ身として、人間の判断は合理的だと思われがちだが、実は全くそうでないことをよく知っています。ですから、同一人物の主張に矛盾が発見されることも問題ではないと思います。よく相手の揚げ足を取る際に矛盾点を見つけ、それをもって相手の言論の価値を貶める方がいますが、時間が経てば人間の考えは変わるものですし、別の視点から物事を見たら違う結論が導き出されることなど珍しくはありません。私は、それでいいのだと思っています。むしろ、「相手の意見を全く理解できない」よりも、「相手の意見もよく分かる」方が議論はよく成立するのではないでしょうか。

 ただし、許容できない矛盾もあります。それは、一つの繋がった論理構造の中で、矛盾を発生させることです。これは論理学的には破綻を意味します。こうなってしまうと「人間の矛盾」ではなく「議論の矛盾」となってしまうので、その議論に価値はあまりなくなってしまいます。そうならないように、少なくとも一つの主張は一つの信念のもとに貫くようにしましょう。

 最後に一つ、当たり前のようで守られていないことを注意喚起したいと思います。これはフェミにもアンチフェミにも右翼にも左翼にも誰にも言えることなのですが、「ある括りの人々を同一と見なし、その矛盾点を突く」のは絶対にやめて下さい。例えば、これもあくまで一例なので実際の政治的主張とは分けて考えて頂きたいのですが、「保守の人は国の固有の領土を守れと言いながら、米軍基地を認めている。矛盾している!」という指摘をするのであれば、その二つが同一人物の口から発せられたものであることをまずは確認しなければなりません。簡単なことですので、よろしくお願いします。

 

③批判は受け付けます

 これは私個人としてなのですが、基本的に批判は受け付けています。それは各論の是々非々だけでなく、①、②で書いた私の基本理念についてでも構いません。多くの議論好きとやらは、「相手と根本的な価値観からして異なっていた場合、分かり合うことを諦める」ことが多いように見受けられますが、そもそもジェンダー論の出発点となった構築主義は、「自分が当然だと思っている根本的な価値観すらも絶対的なものではないのではないか」と疑う所から始まっています。私は、自分が思考の根底としている部分でさえも、批判を受け入れて変えなければいけない場合があると考えています。だってそう信じなければ、生まれたときから「女は男を好きになるのが普通」と根底に刷り込まれた人の思考を変えるなんて不可能になってしまうでしょう?

 とはいえ、残念ながら人生の時間は有限です。私の貴重な時間を、Twitter上での議論などに大幅に費やしたくはありません。寄せられた批判全てに目を通し、熟慮していたら、それこそ何も発信することができないまま人生が終わってしまうことでしょう。ですので、議論を打ち切る場合はございます。逃げた、と考えていただいても構いませんが、実りある議論のためにはこれも致し方ないことかと存じます。残念極まりないと私も考えています。ご容赦下さいませ。

 

以上が私の基本的なスタンスです。簡潔にと言った割に長文になってしまい申し訳ございません。ここまで読んでいただいた方には、本当に感謝の念しかありません。

では、是非一緒に世の中を良く変えるべく戦っていきましょう!ありがとうございました!